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巨星墜つ、ン?

 投稿者:編集部  投稿日:2015年 1月 2日(金)09時04分28秒
  .

             巨星墜つ、ン?



        この「巨星」なる人は、同じ斜光8号で数名の寄稿者がとりあげています。
    よほど印象に残る方だったのでしょう。それぞれの人のそれぞれの印象が
    あるようですが、共通した人物像も浮き上がってきます。それぞれの記憶
    の中でこの人物が生きているようです。(α編集部)





(一)
 狭いエレベーターを出てコの字型に歩いた処に病室はあった。六人部崖である。左の一
番手前でリクライニングベッドを少し起こして、誰何するが如く此方を見ている患者が居
る。患者なのだろうが少し頬が膨らんで不逞々々しい感じがする。右手前の人は痩せ型で
体型は似ているが少し背が高そうだ。奥の四人もどうも本人では無さそうだ。
 そうすると?…。前回彼の入院、大手術に丸一日立ち会い、以降三日と明けずに見舞い
し続けた近藤君が云っていた。このところムクミが出て顔も腫れて別人のごたっよ、矢張
り最初の男が彼だった。手術の影響で既に声を失い、手書きの文字板を指で示して会話す
る。カイシャノカエリカ、うん、可成り端折ったばってん、こがん時間になったとよ。彼
はせわしなくカナ文字を追い、指で突く。そして、もどかしくなったのか、文字を探す気
力が続かないのか、中空に文字を書く。観察力の無い私にはそれが読みとれない。済まん
なあ。余り楽では無さそうなので、何度も聞き返す事が憚られ、私は会話を中断した。そ
して己の読解力の無さを恥じた。闘病とはこんな繰り返しなのだと実感した。
 二日後、彼、高柳増男君は喪くなった。巨星?虚勢落つの間違いではないのかとの声が
聞こえる。確かに彼は、背丈も含めて身体的弱みを見せまいとするのか、はったりも多か
った。しかし彼はベルギーの勲章を貰っているのである。そして全国紙に記事として死亡
が報道された。勝てんなあ、多少権威主義的思考回路の残っている私は、素直に感心する
のである。同期生、多士済々といえども、死亡記事を獲得する者が何人居るだろうか。晩
年はともかく、クラシック音楽という文化事業に何等かの足跡を残した証拠では無いだろ
うか。

(二)
 城南中二年の時だったか、市町村合併により郡部の北川副中の連中が編入されてきた。
その中に彼はいた訳だが、中高を通じて同じクラスになった事は一度も無い。多分、英語
の籾井塾辺りで話をするようになったのだと思うが、長い付き合いとなった。私は幼時に
死ぬかと思うような熱病に冒されたらしく、その所為で時間のネジが狂ってしまったと信
じているが、割とパンクチュアルな彼に随分と助けられて来た。佐賀高校北校舎通学の頃
は、我が家が通り道だったので毎朝立ち寄って声を掛けて呉れた。非道い時は、その声で
目がさめ、飯を掻込む間、待って貰うという始末であった。そう、彼は私との付合いのキ
ーワードは「待たされる」と思っていたかも知れない。彼の結婚式のスピーチの種にして
今も後悔しているが、彼は折角大学にストレートで入ったのに、一浪の私を途中で待って
呉れて卒業は同じとなったのである。
 進取の気性というか、新しい事に挑戦し、かぶれるのも早かった。東京に出て来て最初
のアパートは佐賀県人会学生寮松涛学舎のすぐ裏で、三軒長家みたいな平屋にN、F両先
輩と住んでいた。左にフェンスがあって、その向うの芝生も進駐軍(単なる外人だったか
も知れない)の家庭の男の子二人が犬と遊んでいるのを横目に見て、路地を入った突き当
たりだった。訪ねて見ると、彼は縁側で悠然とキセルをふかして居た。壁には派手なアロ
ハ姿の赤木圭一郎のポスター、受験浪人中で一年間は坊主頭で頑張る心算の私には、東京
に毒された堕落の臭いがしたものだった。麻雀の積み込み、そしてずっと後の事だがイン
ベーダーゲーム、何でも取り組むのが早かった。麻雀と云えば他の三人の点棒の推移を克
明に暗算しているのも驚異だった。手練れとなれば当たり前の事かも知れないが、私はA
からBに千九百点入って、そのBがCに八千点払って等と足し算、引き算をしている内に
次の結果が重なりわからなくなってしまうのである。ボーリングをやればマイボールを持
つまで打ち込む。あの勢いでクラシック音楽も研究したのだろうか。それにしても感性や
耳は研究によって身に付くものだろうか。カラオケと云え「夜霧のブルース」や「ホテル」
を下手に歌う、到底クラシックのセンスは窺えない、謎である。
 又、生活力が旺盛だった。多少お世辞も混えて「原爆戦争となっても生き残る最後の一
人」と讃辞を贈ったら、痛く気に人つて呉れたが、まず第一に飯炊き、料理の手際が良か
った。比較的長く住んで居だ荏原中延のアパートで、多宿多飯のお世話になった者は3K
を始め、大勢いるようだ。豪農の実家から送られて来た米、野菜が常時ふんだんにあった
ようだが、私白身は間もなく親が東京に出て来て飯の心配は無かったので、この恩義には
余り浴していない。にも拘わらず、彼はし十把一絡げで面倒見たと錯角していて、後々ま
で養ったよがしに世間に喧伝していた。実際の処は世話好きで、自分で招待するケ-スも
間々あったようだ。そして時々自分はこんなお人好しで良いのだろうかと反省するらしく、
ある‐突然、部屋に貼り紙をするのである。一泊百円、朝食八十円申し受けます。しかし、
大体五日位でこの決心は崩れるのであった。要するに寂しがり屋であったのだろう。

 就職の際も彼の生活適応力は発揮された。学生アルバイトで読売新聞社文化事業部で各
種イベントの下働きをし、労を厭わず走り回り重宝な存在となってしまった。そして嘱託
とは云え、そのまま入社してしまったのである。この頃はカウント・べーシー他貴重な演
奏に招待してくれた。そして「ヒーコー」とか「ゲーセン」とか外国語(業界用語)を使
って私を辟易させたものである しかし自分を失っては居なかった。嘱託という身分の危
うさを自覚していて、いつ頃から準備を始めたかは分からないが、「呼び屋」のノウハウ
を蓄積して独立したのである。多分、クラシックの方がプロダクション等の絡みが少なく、
アーティストとの関係が永続できるとの計算から、クラシック、主としてピアノに絞った
のでは無かろうか。いずれにしても事業を興し、業界で注目される存在にまでなったのだ
から立派なものである

 色々と思い出は尽きない。例えばあの中延のアパートは駅のすぐ横にあったが、電車が
到着して看客が乗降し、発車して走り去るまで駅の側の踏切りの警報機がカンカン鳴って
いるのが聞こえていた。彼はそのカンカンが鳴りだしか時にトイレに入り、鳴り終える前
に用を足して出て来る。早○自慢であったこと。
 又、例えば自分の業界仲問で麻雀をやる事になり、一人足りないので友人G君を引っ張
り出した。
 そのG君が珍しく大勝し、大敗したMさんが借りという事になって、数日後Mさんは彼
に預けたらしいが、永久にG君の手許には行かなかった、猫糞事件のこと。大企業で当時
課長のK君に電話した際に、出て来た女性に「ラッキョは居るか」と渾名を吹聴したこと。
等々。
 しかしそれも今や詮無い事のように思える。彼は確かに骨となり、我々はそれに立ち会
ったのである。

(三)
 思えば徳重、金丸、そして高柳と交流浅からぬ友人達に先立たれてしまったが、形は違
うにしても皆、一様に人生を駆け抜けて行ったような気がする。詰まる処、多少の差は
あっても人間一生に経験出来る事は決まっていて、早目々々に経験した人は早目に双六の
上がりに到達するのでは無いだろうか。だとすれば、気力、体力の衰えない内にやり遂げ
た方が充実しているのでは無かろうか。このような考えは生き残っている者の不遜なのだ
ろうか。
 いずれにしても最早彼は居ない。三途の川辺りで私を待っている事だろう。先発した金
丸君ともう一人、麻雀のメンバーを揃えて待って居てくれるかも知れない。「勿の論よお」
彼の口癖も聞こえて来る。そのうちに待ち兼ねた彼が迎えに来るかも知れない。「何ばし
よっとネ、早よ来んネ」。
 所が私は彼の死によって今目が覚めたがごとく、そろそろ余命の心配を始めたのである。
これから飯を掻込むがごとくに会社の事や諸々ケリをつけねばいけない事があるっもう少
し待たす事になりそうだ。
                 (完)

斜光8号 2003

222

 
 

ゴルフ、臆面もなく

 投稿者:編集部  投稿日:2014年12月 2日(火)10時25分30秒
  斜光5号 2000
.


    芝の上を、キン コン カン の音が鳴り響く-。その音からしてへたくそ
    な様子しか思い浮かびません。「大開眼」、一度はみなさんそんな錯覚を覚
    えたことがあったのではないでしょうか。
    ゴルフクラブではなくペンを握ると、こんな茶目っ気たっぷりの狐狸庵山人
    みたいな味のあるいい文章が書けてしまうのです。(編集部)





          ゴルフ、臆面もなく

       -ハンディ18を切る上級者は読むことを禁ず-


                  (一)

 「ホワー」キャディのかん高い声が響く。そう、打球がとんでもない方向へ行った時に
注意を喚起するあの掛け声である。 一説によるとforwardより来ているらしい。
 今日は6組22人の大コンペである。インースタート2組目の私はいつになく調子良く、
15番ホールまでボギーペースであがって来た。 ハンディ30でエントリーされているので
優勝はともかく久し振りの入賞も夢ではないと欲を出した矢先だった。 この15番はロン
グホールでドラコンホールに指定されていた。そのため力んだのかティ・ショットを大き
く右へ打ち出してしまった。
 行って見るとボールは隣のコースのフェアウェイの中央近くまで逸れていた。こうなる
ともういけない。向こうからやって来るこのホールの正規の競技者達に迷惑をかけまいと
5番アイアンで早打ちする。頭を残してしっかり打ったつもりだったがトップ気味に入っ
たらしく、低い弾道で飛び出した球は、無情にも我がホールとの境界の松林に吸い込まれ
て行って、コンと木に当たった音がする。球を探し出すのに手間取って、今度は同じ組の
メンバーを待たせまいと焦って打つ。キンと木に当たる。コン、カンと繰り返して、やっ
とフェアウェイに出る。これも木の間が大きく開いている真横へ打ち出せば一打で済んだ
ものを、不思議に前へばかり打ちたくなる。多少枝が張り出していてもその下を潜り出せ
ると信じ込むのである。挙句にアプローチもミスして7オン3パットで10を叩いてしまっ
たのである。
 この後はもう無我夢中である。ある時はグリーン回りのバンカーを行ったり来たりで打
数を稼ぎ出し、又あるときは球の頭叩きの癖が出てフェアウェイをゴロで尺取虫の如く進
んで徒(いたずら)に打数を増やすのである。
 かくしてこの日は入賞どころか栄えあるブービーメーカーに落ち込んでしまった。
もう金輪際ゴルフなんかやるかあ、クラブなんかへし折ってやる。

                  (二)

 「キン」球はフェアウェイの真中をまっすぐ飛んで打ち上げのロングホールの頂上で跳
ねた。
 今日はプライベートに4人で回っている。励みとて、全てのロングホールのドラコンと
ショートホールのニアピッにチョコレートを賭けることゝした。長いブランクの後、久し
振りのコースなので昨日の付焼刃の練習ではカバーしようも無く、調子は良くない・午前
中のアウトは、ショートホールは二つとも乗らなかったし、 ロングはOBと頭を叩いた
ゴロで勝負にならなかった。昼食後も11番ショートホールはグリーンエッジだし13番ロン
グホールはバンカーに転がり込んで、チョコレートは全く蚊帳の外であった。 ところが
15番ショートホールは148ヤードしか無かったが砲台でグリーンが小さいため、誰もワン
オンしなかった。衆議一決でこのホールの分も最終18番ロングへ持ち越しとなり、18番
は2枚オールを賭けた大一番となった。
 予兆はあった。2ホール前からティーショットが当り出し、ブレなくなった。18番でも
思い切り力んで打ちましょうと宣言しての1打だった。
 かくして他の3人からチョコ2枚づつせしめ、朝から取られ放しの分を一挙に取り戻す
結果となった。痛快この上も無い。
 矢張りゴルフの醍醐味は広い所で思いっきりひっぱたく事だよなあ。

                  (三)

 私が初めてクラブを握っだのはもう古い話となる。 昭和45年に仙台へ転勤となって
1年後からだから、もう29年になる。当時は仙台市内から車で30分も掛からない所にゴ
ルフコースが3、4ケ所あり恵まれた環境であった。古き好き時代のことゝて業績のあが
っている部署では、朝、会社に出勤してから空を眺めヽ好いゴルフ日和だ、仕事をするの
は勿体ないとばかりにゴルフ場へ出張する輩も居たようだ。従って社内外コンペも盛んで、
私の場合上司ら啜(そそのか)されれてハーフットを買いヽ殆ど練習なしでコンペに出た。
結果は推して知るべしヽ空振り有り、池ポチヤ有りでハーフ83で回ったが、これも途中
で数が分からなくなった時も有り、定かな数字とはいい難い。一緒に始めた同僚がラフで
もバンカーでも、ティアップして打っているのには驚かされた。そんな長閑なスタートで
あったが、このような入り方は芳しいものではなくヽ最初に良い先生について集中的にレ
ッスンした方が上達は早かっただろうと残念である。とにかく30年近くやって未だにハ
ーフ60を叩く人も珍しいだろうし、これ程上達が無くても、臆面もなくゴルフを続けて
いる人も珍しいのでは無いかと思う。
 元々運動神経は良い方では無い。自分では中の上と思っているが球技は余り得手では無
い。相手を捉えて居られる相撲などは多少自信はあるが、自分の手元を離れたボールに責
任がもてるかあ。性格的にも向いていないと思う。一般にゴルフは如何にミスを少なく出
来るかが基本だと言われている。巧い人はlmのパットでも集中して打っている。私は例
えば林へ打ち込んで障害物の為やむなく横へ出す時、楽な道を選んだのだから……と雑に
打ってフェアウェイまで届かなかった等の不注意なミスは枚挙に暇が無い。たかがゴルフ、
チマチマやっても仕様がねぇと嘯(うそぶ)く程、大それた気持ちではないがつい出るの
である。麻雀でもトップを走っていながら、大きそうな手づくりをしている人に対してこ
の牌を出して見れば人はびっくりするだろうな等々茶目っ気を出して痛い目に遭ってい
る。シングルハンディの人は腕を維持するのが大変で、毎日クラブを握っていないと落ち
てしまうとよく言われるが、それも大変だなと思う。自分はいくらでも伸びる余地がある
と思うのである。
 そして目測、これが苦手である。キチンと物差しを当てて見ないと安心出来ない性格な
ので、大体何ヤードぐらいかが皆目見当がつかない。専らヤーデージを当てにしている。
これがショットの距離感にも影響してアプローチが全く巧くならない。そして近眼も相侯
ってボール探しが下手である。ラフに打ち込んだ時、飛んだ方向は分っても前後関係が不
確かなのでとんでもない処を探して居たりする。
 それでも30年、年間コースに出る回数は少ないながら、倦まずに続けて来た。矢張り
広いゴルフコースに出る解放感と、親の敵とばかりにクラブを振回して偶(たま)に当っ
た時の快感からであろう。

                  (四)


 そうは言っても技術向上の努力はして来た。レッスン書、テレビ番組等々。例えばアド
レスの際のボールの位置にしても、或る人は「ドライバーの時、左足躇の前に置き、クラ
ブが短かくなるに従い、身体の真中へ寄せる」と言い、又
或る人は「いや常に左足腫の前だが、クラブが短かくなると両足の巾が狭くなってオープ
ンに構えるからボールが真中へ寄ったように見えるだけだ」と言う。要するに、どんな感
じでスイングするかは感覚的なものだから表現が違って来るのである。いわく、インサイ
ドアウトに振れ、スィングのリズムは「ホー」とバックスィングして「ホケキョ」で振
り抜け、バックスィングのトップはソバ屋の出前持ちのような感じで等の言葉に拘泥(こ
だわ)ることは無い。
 要は、如何にクラブフェイスをボールにスクェアに強く当てられるかである。そのよう
にスィングが出来るよう、自分なりのチェックポイントを見つけ、常に同じスィングが出
来るよう自分の身体をシステム化する事である。同じスィングが出来れば大まかな飛距離
はクラブの番手に任せれば良い。問題は中間の距離を要求される時のコントロールショッ
トである。ハーフショット、クォーターショットの距離感は練習で把む他、無いだろう。
 こうして私は大開眼をしたのである。

                  (五)


 私の場合のチェックポイントは以下の通りである。
 (1)方向=どんなショットの場合でも球の後に立って目標方向に球のlm先ぐらいに目
印を見つけ、球とこの目印を結んだラインを意識してスィングする。バックスィングのス
タートもこのラインに沿って引き、このラインに向かって打出す。
 (2)アドレス=アドレスの際、両ヒザ、腰、肩が目標ラインに平行となっているか。ボ
ールは左足腫の前。
 (3)バックスィング=体重移動、右足に体重が乗って来ているかを意識する。腰の回転、
両脇を締めているか、手首のコックは親指側かをチェックする。特にスローテイクバック
を意識する。
 (4)スイングの際、腰が回っているか、身体の上下動は無いか。
 (5)左側の壁=身体が左へ流れないように、インパクトの瞬間に左足親指の爪先を踏み
込む。
 (6)ヘッドアップ=ヘッドアップを防ぐ為に打った直後のボールが飛び出した後の地面
を意識して見る。
 (7)斜面やバンカーのトラブルショットの際は、最初から左足体重で構えて体重移動し
ない方が巧く行く。
 以上のことを瞬間のスイングの際に全部はチェックし切れない。そこでシステム化を図
る。例えば(5)などは素振り練習の際に気を付ければ自然に身体がそう反応するようにな
ってくる。
 私は初心の頃に買ったグリップ棒(正しいグリップが出来るよう凹凸のついた短い棒)
が有ったのでこれを毎日10回振ることとした。
 今ではスィングも可成り固まって来て、週―回に減らしても同じスィングが出来ている
ような気がする。後は練習場で実際にボールを打って軌道修正すれば良い。それとコント
ロールショットの練習である。今度コースに出る時は可成り期待できるぞ。

                  (六)

 折角、大開眼したからには、早く試してみたいと思っていた処、最近どうも右手首や両
ヒジが訳も無く痛くなることが多い。電車で居眠りして船を漕いだ途端、両ヒジに電流が
走る程となった。医者に行ったところ、握力や腕力、指の力などつぶさに見た結果、両手
に痛みが出るという事は局部的な腱鞘炎とは考え難く、MRIで首を見てみましょうと言
う事になった。その結果、首の骨が少しズレていて、基処で神経に当る為の症状との診断
である。
 「一種の老化現象で、首の骨の大手術をすれば治る場合もありますが、必ずしも巧く行
くとは限りません。まあ、なるべく手を便わないようにして、痛くなったら湿布すること
でしょうね」「ゴルフ? 当面は避けることですね」
 かくして無期限のドクターストップとなってしまった。やんぬるかな。
                                                              (完)
 

つひの住み家

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月 8日(日)09時52分58秒
編集済
  斜光6号 2001
.

             つひの住み家





   現代の高齢化家族の萌芽のような作品です。とはいっても母娘の関係、嫁姑の
   問題、無くなったはずの長子制も時代を超えて存在するようです。実母を思う
   妻の気持ち、娘(妻)に甘える実母の気持ち、妻の健康と精神状態、息子夫婦
   の気持ち、そして自分自身の老後の過ごし方を主人公は考えます。義母と妻を
   背負う主人公のやさしさが伝わります。暗くなりがちな話題をぴりりとユーモ
   アを交えて描いた作品となりました。(編集部)




 新世紀を迎えて私の身辺は慌ただしく変わって来ている。
 私は今、老人ホームより通勤している。諸般の事情から、義母に、先行して人居しても
らった時に、妻は 「親を老人ホームに押し込んだ」 という世問的なイメージを気にして
「介護付きシルバーマンション」と呼びたがったが、成程その方が当を得ているかも知れ
ない。

 場所は旧大宮市内、JR大宮駅より東武電車で三つ目の処にある・五階と四階の二棟がエ
の字型につながった形で、そのつなぎの部分の一階に食堂、喫茶室、ロビー、ビリヤード
等娯楽室がある。入居者の寄贈で成り立っているような細(ささ)やかな図書室とプール
大浴場もある。各室に風呂はあるのだが、お湯を張って流して掃除してが面倒なのと燃費
が個人負担とならない点から可成りの人が大浴場を利用しているらしい。
 私の部屋は四階のILDKで十二坪しかない。トイレ、洗面台、風呂場、電磁調理器し
か使えない細やかなキッチンと居間、六畳の和室と押し入れ、半間の備え付けの洋服ダン
ス、玄関の左右の靴箱とコート掛けで全部である。それらが限られたスペースに巧く配置
されている。例えば風呂場、普通のタイルでは無く、コルク状のものが敷いてあるので直
に座っても冷たく無い。シャワーも垂直なパイプにシャワー受けが付いていて自由に上下
するように出来ている。一階には開業医が入っていて、外来も、受付けながら優先的に対
応して呉れる。一応健常者用なので、起居動作は自立が原則であるが、各室にナースコー
ルがついていていつでも駆け付けて呉れることになっている。
 食事は多少薄味ではあるが刺身も出るし、肉料理も出るので老人食っぽく無く、下手な
ファミリーレストランより美味である。夕食の献立は一種のみなので偏食家は週間メニュ
ーを見て予約しなければ良い。朝食、昼食、夕食、値段が決まっていて月毎の精算なので
自由が利く。夕食は五時半から七時までなので、帰宅の遅い私の場合我が儘を云ッてレン
ジ対応食器を預けて詰めて貰っているが、それにしても時間内に取りに行かなければなら
ない。つまる処、自分で調理しないで良い反面、夕食時に急に出掛ける等の自由度は制限
される。
 外出は気楽である。給湯も冷暖房も集中方式なので消し忘れても大事に至る心配は無い。
タバコの火とテレビのスイッチ、それに窓とドアの施錠のみである。これまでの一戸建て
の時は割と空き巣狙いが頻発していたので、二階の戸締まりは、雨戸は、火の元は、等々
チエックが大変だったので本当に身軽である。更に妻に言わせれば。“最大のメリット”
はゴミ捨てである。各階にゴミ室があって曜日、時間、ゴミの種類を問わずに捨てられる。
毎日、業者が各フロア-より回収するシステムらしい。曜日を気にして、朝の限られた時
間内にゴミ回収所までエッチラ運んでいたこれまでと比べると天と地の差があると云うの
である。
 一階のロビーには大きなテレビと新聞も数種類置いてあり、庭にはシャッフルボードの
コートがあるようだ。食堂も含めて一階は一種のコミュニティの場となっているようで、
正装という程堅苦しくは無いが、超カジュアルな姿は見掛け無い。折にふれ外出の機会も
作ってくれるようで、義母はこれまで、つくば山日帰り旅行や神田明神初詣に参加して、
スタッフに車イスの面倒を掛けたようだ。総括すれば、個食の寂しさ、煩わしさより解放
されて、豊かな人間性のある老後を過ごせる手助けを有料で行うというコンセプトと聞く。
体力的に部屋の掃除や洗濯、買物が出来なくなった場合は、時給五百円程度で代行して貰
えるシステムもある。
 最近すぐ隣に介護棟なるものが出来た。病気で寝たきりの状態やアルツハイマー症等で
一人で生活できなくなった場合には、後見人と協議の上、こちらへ移って食事の世話から
面倒見て頂けることになっている。そこまでも長生きしたくはないが、万一、生かされて
しまった場合は自殺する訳にもいかず、周囲に迷惑を掛けないよう事前の準備も必要では
無いだろうか。

 このような老後の安心を買う形なので正直云って割高である。まず契約は普通の売買で
は無く、その部屋の生涯居住権を買う形で財産とはならないにも拘わらず、買うのと同程
度の金額である。 この分は十年償却の形を取っているので、十年未満に[何らかの事情]
で退出の際には、先方計算による償却表に従い残額が返金されることとなっている。
かと云って生涯居住権なので10年経過したら再契約等、又費用が掛かる訳では無い。
この居住権に加えてI人当り数百万円の生涯介護料を二括前払いすることとなっている。
そして入居後は食費と管理費を毎月支払うこととなる。 管理費はこれだけのスタッフ、
共用設備を維持して行く為の費用なので、矢張り私が将来貰えるであろう年金でどうにか
払って行けるかなあという金額となる。大変な出費であるが物は考えようで例えば別荘で
も買う位なら介護付き別荘を買った心算になれば良い。それ程で無くとも子女と同居の為
二世帯住宅に建て替える位なら、その費用で考え直した方が将来の軋轢を避けられて良い
かも知れない。
 但し約束通りに運営されて行くかどうかの心配があるので、長男を後見人とし或る意味
では看視させる一方、月々が不足しそうな場合は補助して貰おうと思っている。スタッフ
は良く教育されていて現状申し分は無いが、民営だけにこのまま続くのかどうかの懸念が
強い。某ゼネコンの百パーセント子会社なので毎日株価を気にしている次第だが、万一親
会社が銀行管理等の事態に陥ったとしても、この事業自体はペイしているようだし、福祉
関連で社会的影響も大きい処から、閉鎖というような最悪の局面は無かろうと腹を縊って
いる。
 狭い部屋とは云え内部調度を揃えるのも大変だった。限られたスペースに入るように冷
蔵庫、洗濯機、乾燥機、仕事机等を新しく買った。蒲団の上げ降ろしが大変とやらで和室
に絨毯を敷いて折りたたみ式のべッドも入れた。食卓はワゴン式テーブルである。狭いの
で極力キャスター付を選び、何かの折はすぐ動かせるようにした。入居を決めて以来、妻
は「まるで新婚に戻ったみたい」等と宣(のたま)い乍ら買物に勤(いそし)んでいた。
これまでブランド品等で着飾ることも無く、つましく良い妻だと思っていたが一挙に敵を
取られた思いである。
 それにしても入居資格が六十歳以上なので私か最年少である。大半は悠々自適の年寄り
だらけの中、シャッフルボードヘの誘(いざ)いのアナウンスを他所に颯爽と出勤するの
である。正直云って異和感は大きい。
 一体どうしてこのような仕儀に陥ったのだろうか。



パタ-ンA

 三年前、長男が結婚して同居が始まった。母屋と離れで仕切られているし、気立ても良
く家事志向の良い娘(こ)だとの触れ込みなので、巧く行くと思った。
 一年程は順調で女同志譲り合い、頂き物等も神経を使い過ぎる程に平等に分け合って居
た。ひとつには、我々が住んでいる母屋にしか風呂、洗濯場が無かったのが良くなかった。
どうやら我々が入った後は流して、お湯を入れ替えているらしい。疲れているのに風呂掃
除はつい自分がやる羽目になる等の愚痴がこぼれ出した頃、もうひとつの事態が重なった。
共働き。長男の帰宅が遅いので、嫁も市内へ勤めに出ることとなった。庭の草むしり、洗
濯物の取り片付け等々共用部分以上の仕事が専業主婦である妻の負担となった。「段々老
いては子に従えになっていくわねェ」と苦笑しているうちはまだ、手助け出来る喜びも混
じっていたが、程なく心不全を患ってから、その余裕は無くなった。炊事、洗濯がやっと
で掃除もままならない状態となった。それでも極端に顔色が悪くなる訳では無く、顔に心
不全と書いてある訳では無いので、若夫婦もつい市役所の届出等の用事を頼みそうになり
険悪な会話となる。私が死んでしまえば判って貰えるかしら等、妻は考え込むようになっ
た。このままでは死なないまでも喧嘩別れになり兼ねないし、炊事の負担を除く丈でも精
神衛生上良いたろうと思い切った次第である。


パターンB

 義父が亡くなってからもう十二年にもなるが、途端に妻の負担が重くなった‥寂しがり
屋の義母が丸で全体重を浴びせるが如くに寄り掛かって来たのである。 例えばテレビで
入浴中に喪くなったニュースを視たら最後、自分も血圧が高いしああなったらどうしよう
恐くてとても一人では風呂に入れないとなり、妻は何年もの間一緒に風呂に人つて居た。
入浴の時間も義母の都合が優先となるし、髪を洗ってやったりしていると疲れて自分の髪
は二の次となる始末である。万事この調子で当初は急に先立たれた動転と心細さが為せる
業で、いずれ立ち直るものと思っていた。所がそうでは無く寧ろ性格的なものと云えそう
だ。いつも誰かが立てて呉れ、支え、尽くして呉れて万事巧く行く、そのように自分は善
根を積んで来たと思っている節がある。従って女学校の集まりで同い年の友達に荷物を持
って貰っても、あの人の方が元気だからとお言葉に甘えてしまう。年齢と共に足が弱り、
腰も少し曲がり出すにつれて細(ささ)いな用事でも呼びつけられるようになった。
妻も唯々諾々となっている訳では無いが、お前は気持ちがしっかりしているから良いけど
私は・・・等とナメクジの駆除までやらされてしまうのである。子供達が段々自立して、
余り家に寄りつかなくなるのと反比例して、のし掛かられる状態となった。子育てでお金
も暇も無い状態から解放されて、やっと自分の時間が出来て旅行のひとつも連れて行って
貰おうかと思ったのに今度はおばあちゃん、私の人生って一体何なのだろう。人には、お
ばあちゃんみたいに面倒見られ続ける人生と、私みたいに人の世話をする役廻りと二通り
あるみたいね。妻は段々気鬱な表情を見せることが多くなった。
 一寸した行き違いから子供が親を敵対視し、特に母親に強く当る時期があった。夫たる
私は何をやっているのか相変わらず帰宅が遅い。
 そんな諸々の心労の所為か、二年半前に妻は夜中に発作を起して心不全に取り憑かれた。
自分でも予測がつかない許容量以上に動くと動悸がして二~三時間じっと横になって居な
ければならない身体となった。自分の事がやっとなので色々思案の結果、日中はヘルパー
さんに来て貰い義母の世話をして貰うこととした。半年位そんな状態を続けたが、金銭的
にも貯えを食い潰す状態を何年続けられるか不安が一杯である。又、少し物忘れが強くな
った義母は、妻の病身を忘れて夜になると相変わらずエアコンの調節だけでも呼びつけ、
すぐ駆けつけないと機嫌が悪い。結局の所、思った程休まらないのである。再度、市役所
等調べ廻った結果、健常者用の有料老人ホームであれば世間的なイメージのような事も無
く、幸いにも市内で車なら十五分で行ける所に割と評判の良い施設がある事が判った。一
緒に体験入居もした上で、不承々々ではあるが入って貰うこととした。
 当初は我が身の不幸を嘆く日も多かったが、友達づくり等スタッフの親身な協力もあり
我々も休日の都度訪問するよう心掛けたので、次第に馴染んで呉れた。最近では偶(たま)
に親戚の法事に同行して帰って来ると、やっぱり家の方が落着くとの言葉も出るようにな
った。妻は訪問する毎にスタッフの応待、世話振りが甚(いた)く気に入り、いずれ自分
も入りたいと意を強くしたようだった。

 本年三月に長男が結婚したが、縁談が進展する過程で妻は潮時だと思ったようだ。彼女
は家庭的で同居歓迎だとの話であったが、妻は自分の経験からも無理だと思った。介護は
大変な犠牲を強いられ、実の母親でさえ険悪な空気になる事が再々有ったのに他人同士が
巧く行く訳が無い。自分もそのうち惚けが出て来て母のような我儘を云い出さないとは限
らない、子供にそんな迷惑や負担を掛けたくない。それよりか離れて暮らして、時々会い
に来てくれた方が、お互いの独立が保てて永続きする。多分そんな考えだったと思う。そ
して自分は無理が利かない身体なので、例え最初の数ヶ月丈であっても同居すれば最初か
ら迷惑を掛けることになる。引っ越して来た荷物が着けばつい手を出してしまい無理を重
ねることになるし、取り敢えず気を使い乍ら嫁さんと四六時中顔を合わせているのも気が
重い。長男が我が家に入って後継ぎ意識を持って呉れる丈で十分で、なるべく邪魔物の居
ない新婚生活を味わわせてやりたい、こんな理由から、当初からの別居を望んだ。その為
には将来帰って来るであろう次男の権利は留保し乍ら、我が家をそっくり明け渡して母親
と同じ施設内の別室に転居したいとの意識に凝り固まって行った。そして心の何処かでは
母親丈を老人ホームに押し込むのでは無く、自分も良いと思って入居するのよと母親や世
間に主張したいようだった。私としても、将来子供達のお荷物となって迄、生きて居たく
無いとの気持ちは強く、いずれ直面する事態を早める丈かも知れないと思うようになった。
何よりも泣く子と病人には勝てないとの思いで決断した次第である。


エピローグ

 A・Bどちらのパターンを好まれるかは読む人の生い立ち、嗜好、教養にお任せすると
して、人間、個人差は有るにしても、いずれ年令と共に衰えて来る。自分で身の回りの事
を出来るうちは良いがそうで無くなった場合どうするか。突然、意識が混濁してしまう事
だって無いとは云えない。そうなれば今迄培って来た人格、人間性とは関係無く、周囲に
迷惑を掛けてしまう。これは耐えられない事では無いだろうか。決して長生きしたいとい
う訳では無い。寧ろ、周囲に対する責任が無ければ、そろそろお暇(いとま)しても良い
かなぁと思って居る。生かされてしまった場合への備え、心構えの問題である。
 私の場合、一応の「つひの棲み家」を準備出来たが、何分にも狭いので、書物やシーズ
ンオフの衣類等、大半の物は家に置いた儘、追ん出て来た形となっている。思い出しては
頻繁に取りに行っている始末である。本格的に明け渡す迄には気の遠くなるような諸々の
物を整理、処分しなければならないが、仮に充分な時間が有ったとしても、到底処分し切
れない、したくない気持が有る。粛々と老後を迎えるのに必要な物は限られている筈で有
るが、この捨てたくない気持ちが取りも直さず、現在の生活への拘泥、生への執着そのも
のであろう。まだまだ枯れる境地には程遠いようだ。
嗚呼。
                 【完】

107

 

ゴルフ、臆面もなく

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月25日(日)23時20分39秒
編集済
  斜光5号 2000
.


    芝の上を、キン コン カン の音が鳴り響く-。その音からしてへたくそ
    な様子しか思い浮かびません。「大開眼」、一度はみなさんそんな錯覚を覚
    えたことがあったのではないでしょうか。
    ゴルフクラブではなくペンを握ると、こんな茶目っ気たっぷりの狐狸庵山人
    みたいな味のあるいい文章が書けてしまうのです。(編集部)





          ゴルフ、臆面もなく

       -ハンディ18を切る上級者は読むことを禁ず-


                  (一)

 「ホワー」キャディのかん高い声が響く。そう、打球がとんでもない方向へ行った時に
注意を喚起するあの掛け声である。 一説によるとforwardより来ているらしい。
 今日は6組22人の大コンペである。インースタート2組目の私はいつになく調子良く、
15番ホールまでボギーペースであがって来た。 ハンディ30でエントリーされているので
優勝はともかく久し振りの入賞も夢ではないと欲を出した矢先だった。 この15番はロン
グホールでドラコンホールに指定されていた。そのため力んだのかティ・ショットを大き
く右へ打ち出してしまった。
 行って見るとボールは隣のコースのフェアウェイの中央近くまで逸れていた。こうなる
ともういけない。向こうからやって来るこのホールの正規の競技者達に迷惑をかけまいと
5番アイアンで早打ちする。頭を残してしっかり打ったつもりだったがトップ気味に入っ
たらしく、低い弾道で飛び出した球は、無情にも我がホールとの境界の松林に吸い込まれ
て行って、コンと木に当たった音がする。球を探し出すのに手間取って、今度は同じ組の
メンバーを待たせまいと焦って打つ。キンと木に当たる。コン、カンと繰り返して、やっ
とフェアウェイに出る。これも木の間が大きく開いている真横へ打ち出せば一打で済んだ
ものを、不思議に前へばかり打ちたくなる。多少枝が張り出していてもその下を潜り出せ
ると信じ込むのである。挙句にアプローチもミスして7オン3パットで10を叩いてしまっ
たのである。
 この後はもう無我夢中である。ある時はグリーン回りのバンカーを行ったり来たりで打
数を稼ぎ出し、又あるときは球の頭叩きの癖が出てフェアウェイをゴロで尺取虫の如く進
ん乙糾ご打数を増やすのである。
 かくしてこの日は入賞どころか栄えあるブービーメーカーに落ち込んでしまった。
もう金輪際ゴルフなんかやるかあ、クラブなんかへし折ってやる。

                  (二)

 「キン」球はフェアウェイの真中をまっすぐ飛んで打ち上げのロングホールの頂上で跳
ねた。
 今日はプライベートに4人で回っている。励みとて、全てのロングホールのドラコンと
ショートホールのニアピッにチョコレートを賭けることゝした。長いブランクの後、久し
振りのコースなので昨日の付焼刃の練習ではカバーしようも無く、調子は良くない・午前
中のアウトは、ショートホールは二つとも乗らなかったし、 ロングはOBと頭を叩いた
ゴロで勝負にならなかった。昼食後も11番ショートホールはグリーンエッジだし13番ロン
グホールはバンカーに転がり込んで、チョコレートは全く蚊帳の外であった。 ところが
15番ショートホールは148ヤードしか無かったが砲台でグリーンが小さいため、誰もワン
オンしなかった。衆議一決でこのホールの分も最終18番ロングへ持ち越しとなり、18番
は2枚オールを賭けた大一番となった。
 予兆はあった。2ホール前からティーショットが当り出し、ブレなくなった。18番でも
思い切り力んで打ちましょうと宣言しての1打だった。
 かくして他の3人からチョコ2枚づつせしめ、朝から取られ放しの分を一挙に取り戻す
結果となった。痛快この上も無い。
 矢張りゴルフの醍醐味は広い所で思いっきりひっぱたく事だよなあ。

                  (三)

 私が初めてクラブを握っだのはもう古い話となる。 昭和45年に仙台へ転勤となって
1年後からだから、もう29年になる。当時は仙台市内から車で30分も掛からない所にゴ
ルフコースが3、4ケ所あり恵まれた環境であった。古き好き時代のことゝて業績のあが
っている部署では、朝、会社に出勤してから空を眺めヽ好いゴルフ日和だ、仕事をするの
は勿体ないとばかりにゴルフ場へ出張する輩も居たようだ。従って社内外コンペも盛んで、
私の場合上司ら啜(そそのか)されれてハーフットを買いヽ殆ど練習なしでコンペに出た。
結果は推して知るべしヽ空振り有り、池ポチヤ有りでハーフ83で回ったが、これも途中
で数が分からなくなった時も有り、定かな数字とはいい難い。一緒に始めた同僚がラフで
もバンカーでも、ティアップして打っているのには驚かされた。そんな長閑なスタートで
あったが、このような入り方は芳しいものではなくヽ最初に良い先生について集中的にレ
ッスンした方が上達は早かっただろうと残念である。とにかく30年近くやって未だにハ
ーフ60を叩く人も珍しいだろうし、これ程上達が無くても、臆面もなくゴルフを続けて
いる人も珍しいのでは無いかと思う。
 元々運動神経は良い方では無い。自分では中の上と思っているが球技は余り得手では無
い。相手を捉えて居られる相撲などは多少自信はあるが、自分の手元を離れたボールに責
任がもてるかあ。性格的にも向いていないと思う。一般にゴルフは如何にミスを少なく出
来るかが基本だと言われている。巧い人はlmのパットでも集中して打っている。私は例
えば林へ打ち込んで障害物の為やむなく横へ出す時、楽な道を選んだのだから……と雑に
打ってフェアウェイまで届かなかった等の不注意なミスは枚挙に暇が無い。たかがゴルフ、
チマチマやっても仕様がねぇと嘯(うそぶ)く程、大それた気持ちではないがつい出るの
である。麻雀でもトップを走っていながら、大きそうな手づくりをしている人に対してこ
の牌を出して見れば人はびっくりするだろうな等々茶目っ気を出して痛い目に遭ってい
る。シングルハンディの人は腕を維持するのが大変で、毎日クラブを握っていないと落ち
てしまうとよく言われるが、それも大変だなと思う。自分はいくらでも伸びる余地がある
と思うのである。
 そして目測、これが苦手である。キチンと物差しを当てて見ないと安心出来ない性格な
ので、大体何ヤードぐらいかが皆目見当がつかない。専らヤーデージを当てにしている。
これがショットの距離感にも影響してアプローチが全く巧くならない。そして近眼も相侯
ってボール探しが下手である。ラフに打ち込んだ時、飛んだ方向は分っても前後関係が不
確かなのでとんでもない処を探して居たりする。
 それでも30年、年間コースに出る回数は少ないながら、倦まずに続けて来た。矢張り
広いゴルフコースに出る解放感と、親の敵とばかりにクラブを振回して偶(たま)に当っ
た時の快感からであろう。

                  (四)


 そうは言っても技術向上の努力はして来た。レッスン書、テレビ番組等々。例えばアド
レスの際のボールの位置にしても、或る人は「ドライバーの時、左足躇の前に置き、クラ
ブが短かくなるに従い、身体の真中へ寄せる」と言い、又
或る人は「いや常に左足腫の前だが、クラブが短かくなると両足の巾が狭くなってオープ
ンに構えるからボールが真中へ寄ったように見えるだけだ」と言う。要するに、どんな感
じでスイングするかは感覚的なものだから表現が違って来るのである。いわく、インサイ
ドアウトに振れ、スィングのリズムは「ホー」とバックスィングして「ホケキョ」で振
り抜け、バックスィングのトップはソバ屋の出前持ちのような感じで等の言葉に拘泥(こ
だわ)ることは無い。
 要は、如何にクラブフェイスをボールにスクェアに強く当てられるかである。そのよう
にスィングが出来るよう、自分なりのチェックポイントを見つけ、常に同じスィングが出
来るよう自分の身体をシステム化する事である。同じスィングが出来れば大まかな飛距離
はクラブの番手に任せれば良い。問題は中間の距離を要求される時のコントロールショッ
トである。ハーフショット、クォーターショットの距離感は練習で把む他、無いだろう。
 こうして私は大開眼をしたのである。

                  (五)


 私の場合のチェックポイントは以下の通りである。
 (1)方向=どんなショットの場合でも球の後に立って目標方向に球のlm先ぐらいに目
印を見つけ、球とこの目印を結んだラインを意識してスィングする。バックスィングのス
タートもこのラインに沿って引き、このラインに向かって打出す。
 (2)アドレス=アドレスの際、両ヒザ、腰、肩が目標ラインに平行となっているか。ボ
ールは左足腫の前。
 (3)バックスィング=体重移動、右足に体重が乗って来ているかを意識する。腰の回転、
両脇を締めているか、手首のコックは親指側かをチェックする。特にスローテイクバック
を意識する。
 (4)スイングの際、腰が回っているか、身体の上下動は無いか。
 (5)左側の壁=身体が左へ流れないように、インパクトの瞬間に左足親指の爪先を踏み
込む。
 (6)ヘッドアップ=ヘッドアップを防ぐ為に打った直後のボールが飛び出した後の地面
を意識して見る。
 (7)斜面やバンカーのトラブルショットの際は、最初から左足体重で構えて体重移動し
ない方が巧く行く。
 以上のことを瞬間のスイングの際に全部はチェックし切れない。そこでシステム化を図
る。例えば(5)などは素振り練習の際に気を付ければ自然に身体がそう反応するようにな
ってくる。
 私は初心の頃に買ったグリップ棒(正しいグリップが出来るよう凹凸のついた短い棒)
が有ったのでこれを毎日10回振ることとした。
 今ではスィングも可成り固まって来て、週―回に減らしても同じスィングが出来ている
ような気がする。後は練習場で実際にボールを打って軌道修正すれば良い。それとコント
ロールショットの練習である。今度コースに出る時は可成り期待できるぞ。

                  (六)

 折角、大開眼したからには、早く試してみたいと思っていた処、最近どうも右手首や両
ヒジが訳も無く痛くなることが多い。電車で居眠りして船を漕いだ途端、両ヒジに電流が
走る程となった。医者に行ったところ、握力や腕力、指の力などつぶさに見た結果、両手
に痛みが出るという事は局部的な腱鞘炎とは考え難く、MRIで首を見てみましょうと言
う事になった。その結果、首の骨が少しズレていて、基処で神経に当る為の症状との診断
である。
 「一種の老化現象で、首の骨の大手術をすれば治る場合もありますが、必ずしも巧く行
くとは限りません。まあ、なるべく手を便わないようにして、痛くなったら湿布すること
でしょうね」「ゴルフ? 当面は避けることですね」
 かくして無期限のドクターストップとなってしまった。やんぬるかな。
                                                              (完)

83

 

「不惑」惑々

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月18日(日)16時13分11秒
  斜光4号 1999
.
  著者50代終わりの頃の作品のようである。不惑をとっくに過ぎたはずなのに、
  不惑、わくわくとは…、物語の出だしがすごい。ハハーン、老いらくの恋のこと
  なのか、などと思わす身を乗りだす。読み終えると、なるほど確かに恋してる。
  著者はこの後すぐに耳順の歳を迎えるのである。彼女の言葉(鳴き声)もそのま
  まに聞き取れるようになるのだろう。 (編集部)




          「不惑」惑々


 (一)

 まり子は誘う。
 或る時はじっと見つめて。
 或る時は身をよじらせて。
 そして或る時は全く素知らぬ顔をする。

 (二)

 私が田端の小さな封筒製造会社に身を投じてから、もう二十四年になる。十数年前より
実際に切盛りするようになって幾らか自信もついて来た頃、大問題が浮上した。
 三年前のことである。これまで給料計算から事務用品の手当てまで、それこそ経理総務
全般を一人で正確に手際良くこなして呉れていた義従姉が、七O歳という年齢を理由に身
を退きたいと云い出した。実は当然予測できる事態だったので、その二年前から二十歳そ
こそこの男性を採用して経理事務を徐々に引き継ぎ、三十年の大計を立てた心算であった。
処が若い者は気が変わり易く、急に介護関係の仕事に転身したいとの事で一からやり直し
を迫られていた矢先でもあった。幸いにも親戚のことゝて明確に期限を切った話では無く、
極力早く後任を見つけて欲しいとの要望だった。
 会社の根幹でもあるし金銭の出納もやるので、最初は知合いの経理士さん等の伝を頼っ
たが芳しい成果は無い。徒らに時日を経過す許りなのでハローワークにも求人を出して見
た。まだ今ほど不況は深刻化していなかったので、零細企業の求人には碌な反応は無かっ
た。進退極った私は家内を脅迫した。
「お前ものうのうとしていないで真剣に探せ。見つからないとお前にやって貰うようにな
るぞ」
 このところ義母に振回されて通勤等体力に自信の無い妻は必死で友人・知人、隣近所等、
手当り次第に臆面も無く声を掛けたようである。
 イヤ下手な鉄砲も数打ちゃ当るとは云うものゝ、窮すれば通ず以上の成果を得た。近所
に住む妻の幼馴染みの線から申し分の無い青年が見つかった。国立大を出て三年程中学教
師をやったが、家庭の事情で退任して実家に帰って職探しをしていたのである。経理の経
験は皆無だったが呑み込みが早く意欲も有る。何よりも世間擦れして居らず、人柄も真面
目である。三ヶ月程、教育引継期間を取って、無事義従姉には引退して貰った。
 一件落着である。が、三ヶ月も経って付録がついて来た。猫である。

 (三)

 六月の或る日、件の妻の幼馴染みが途方に暮れた顔でやって来た。聞けば猫の処遇に困
った挙句、昔、妻が猫を飼っていた事を思い出して頼みに来たと云う。或る一月の寒い夜、
彼女の家の近くに捨てられてミャーミャー鳴いているのがかわいそうで拾って来たものの
借家事情で自宅では飼えない、やむなく一人暮しの彼女の姉さんに飼って貰って居た、所
がその姉さんの所へ別居している息子さん一家が訪ねて来た折に、お孫さんが猫毛アレル
ギーで大変苦しんだ、お姉さんとしては猫も大変可愛がって来たがお孫さんが来て呉れな
いのも困る、窮極の選択として猫を手放す決心をしたものゝ引取手が居ない、ざっとそん
な事情だと云う。
 私は小さい頃飼っていた所為か犬は好きだが、猫は何と無く陰気な感じがするので好き
では無かった。が、自分の頼み事で働いて呉れた人に、それを笠に掛かって云って来る人
では無い丈に、無下には出来ない。聞けは牝猫だが避妊手術をしてあり、トイレ等の躾も
出来ていると云う。かくしてこの猫は我が家で採用となった。

 (四)

 愈々、問題の猫が連れて来られた。当座のキャットフードと使い慣れた食器トレイ、ト
イレボックスと共に綿々としたお願いの手紙がこれまでの飼い主より届けられた。それに
よると名前は“五番街のマリー”の唄が好きなのでマリーと名付けたそうである。所がこ
の名前はやゝ耳の遠い我が家の義母に掛かってはひとたまりもなく、まり子という和名に
改名と相なった。
 最初に驚いたのは猫の食料事情である。我々戦後復興期育ちの人間にとって猫のエサと
云えば、人間様の食べ散らかした魚の骨回りと猫メシ=残り御飯に味噌汁をぶっ掛けたも
のが通り相場だった。処がどうだろう、缶詰のウェットと袋詰めのドライの二種類を買っ
て来るのである。スーパーの ペットフードコーナーへ行けば夥しい種類の缶詰が犬と猫
に分けて並んでいる。前の飼い主からは、マグロ状よりゼリー入りが好きだとして銘柄の
申し送りも来ていた。当初はその銘柄だけを与えていたが、慣れるに従い栄養のバランス
上からも違うものも喰べさせた方がいいのでは等と考える。甘エビも好きだとの話だった
ので“白身魚・エビ入り”なるものを買って来るとガツガツ美味しそうに喰べた。それな
らと勇んで纏め買いして来ると或る時からプッツリ喰べなくなる。申し送りに従い、固い
ドライタイプはおやつ代わりに常時、皿に盛って置き、主食の缶詰は朝晩二回、出してや
るのだが、臭いを嗅いでみて気に入らないと右前脚を二、三度ピッピッと振る。こうなる
と梃子でも喰べない。こちらも意地になってお腹が空くと贅沢云わないで喰べるだろうと
放って置くとおやつの固い方だけをガリガリやっている。根負けして妻が当初からお気に
入りのものと取替えると、最初からそうすればいいんだよと云わんばかりにガツガツ喰べ
るのである。かくして休日になるとペットフードコーナーへ行っては眼鏡を外して缶詰の
内容物を点検し、これなら喜んで呉れるかなと思案する生活が始まった。時間を喰う事、
夥しい。まさに迷惑、惑々である。
 もっともこんな我儘を云い出したのは大分、後になってからで、 来た当座はそれこそ
“借りて来た猫”のようであった。
 やって来たその夜、転々とした我身の不幸を嘆いてか、心細さからか、悲しげに鳴いた
という。そして二、三日はカーテンの陰に隠れて怯えた目付で周囲を窺っているばかりだ
った。食事には出て来るがトイレは丸一日以上行かなかったようである。それから少しず
つ慣れて来たが、捨猫時代に余程恐い目にあったのか、今でも音には敏感に怯える。前の
飼主がマンション暮しで座敷猫状態だったと云うし、我家の前の道路も結構車が通るので
室外に出さない事にしたのだが、玄関先に人の物音がした丈で一目散に物陰に逃げて行く。
 トイレはキチンと躾けてある。トイレボックスの中に新聞とトイレシートとを二枚ずつ
置くのだが用を足した後、必ず前脚でシートを折り曲げて隠そうとする。又我々に慣れる
に従い、側に居る時が安心なのか、人前を憚らず用を足そうとする。綺麗好きで、オシッ
コがシートの端しか付いていない時は拡げて又使わせようとするのだが、ボックスの外側
から脚を伸ばしてクシャクシャに引掻き回して、もう使えないよと意思表示する。
 性格は大人しいと云うか、いじけ気味である。余程の恐怖にとらわれて本能的に出す時
は別として、人様に爪を立てたことが無い。流浪の猫の智慧として飼い主を怒らせない術
を身に付けたようである。家の中に居て他の動物と出喰わす折も無い所為か、背を丸めて
逆毛を立てフーと威嚇する猫独特のポーズを見たことが無い。首輪にヒモを付けて庭を散
歩させた折も匍匐前進だった。庭の隅の壁沿いを、お腹を地面に付けて鼻でクンクン臭い
を嗅ぎ乍ら少しずつ前進するのである。余りにへっぴり腰なので腰でも悪いのでは無いか
と疑った程だった。この初めての散歩の際は脱走騒ぎで大変だった。義母が突然ハンドク
リーナーを掛け出したので、その音に驚いて一米以上飛び上がったかと思うと見事に首輪
を摺り抜けて逃げて行った。ヒモ遊びが大好きなのでヒモをちらつかせて取り抑えて事無
きを得たが、猫の身体が想像以上に柔軟な事を知った。
 このような格闘を経て、一ヶ月もするうちに、まり子は我家に馴染んで来た。今では脱
走しても雨が降り出したら逃げ帰って来る程である。よく声を出して御飯をねだり、鼻に
シワを寄せてニャーとトイレの掃除を要求する。まるで恫喝するが如くである。私が帰宅
すると目の前にドテッと転がって、両前足を曲げた恰好で身をよじらせて、撫でるよう誘
うのである。座って居れば何処からかヒモを咥えて来て私の目の前に据え、自分は少し離
れた所に身を置き、ヒモ遊びのスタンバイをする。意味ありげにじっと見つめて甘える術
を知っている。当方が疲れて居ようが、忙しかろうがお構い無しである。かと思うと、私
の目の前をのそのそ歩いて行く時に声を掛けても、自分が気乗りしない時は全く無視であ
る。素知らぬ顔で通り過ぎて行く。真に手練手管である。やゝもするとペースを乱され、
缶詰め漁り、猫撫で、ヒモ遊びと自分の仕事は後回しになって行く。不惑を過ぎて天命を
知る年齢(とし)なのに混乱、惑々である。今日もまた

 まり子は誘う。
 或る時はじっと見つめて。
 或る時は身をよじらせて。
 そして或る時は全く素知らぬ顔をする。

飼い主として威厳を保ち、主導権を握らなくては……。

           完
                 

70

 

いまさらビ-トルズ

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月 9日(金)17時19分22秒
編集済
  斜光3号 1998
.

          いまさらビ-トルズ



   ずらりとビートルズアルバムが並びました。
   私もいまさらながらビートルズです。読みながら小中高大とそれぞれの
   時代の流れに沿って、ビートルズの一つ一つの曲が見事にはまって行き
   ました。音楽とともにその時に起きた事件も浮かびあがります。(編集部)





 私は人も知る音痴である。私が思うに音痴には三つの段階があるようである。
 先ず軽い部類としては、音はしっかり頭に入っているが再生できない、つまり思ってい
る通りに発声できないタイプである。K君はブラスバンドもやった程なのにお世辞にも歌
がうまいとは言えない、上がり症なのかも知れない。次に音階は聴き分けられるが記憶に
止めることができない、この段階もあると思う。そして重症は微妙な音の違いが聴き分け
られないタイプである。私は残念乍らこのタイプであると自分でも思う。

 小さい頃から観察、観賞という事が苦手だったように思う。周りを碌に見ていない、自
分が関心のある物以外は遠景となってしまっている。いま擦れ違ったばかりの人の男女の
区別ぐらいは覚えているが、服装、髪型等殆ど見ていないような気がする。従って眼鏡を
掛けていたかどうかも定かで無い、覚えていないというよりは元々観ていないのである。
営業に出ても一度や二度会ったぐらいでは相手の顔が覚えられなくて苦労している。ゴル
フの帰りに、仲間が何番ホールは一打目を何処へ打って等と振り返って反省しているのを
聞くと丸で異邦人のような気がする。自分は未熟で右往左往する所為(せい)もあるが、
全く覚えていないのである。音楽に対しても同様、BGMのように聞き流していて細部は
聴き分けられない。よくテレビでイントロの一音だけで曲が判る人がいるが全く不思議で
ある。決して歌が嫌いな訳では無く、裕次郎をはじめ折々の流行歌には好きな曲が一杯あ
る。けれどもカラオケに行っても年輪の図々しさで歌いはするが音程が取れていない。再
生能力もされ乍ら、もとが雑にしか頭に入っていないのである。

 こんな私が今更ながらビートルズにハマった。我々の高校時代はプレスリー全盛時代で
ビートルズが出て来た時も、ガチャガチャキャーキャー煩さいだけじゃ無いかという印象
だった。“和製”プレスリーが次々と出ても和製ビートルズはいなかったから馴染めなか
ったのかも知れない。いずれにしても来日公演で騒ぐ人の気が知れなかったしテレビも見
なかった。つい最近までずっとそんな気持ちでいた。
 もう四、五年になるだろうか、北区田端新町の私の会社の傍らに立派なマンションが出
来た。噂によれば大手企業の単身赴任者用の社宅として数社の長期契約を取り付けた上で、
建てたもので、エアコン、冷蔵庫等完備との事である。亦、噂によれば一部公共にして提
供すれば容積率の優遇措置を受けられるとのことで、その一階の一部が図書館となった。
或日覗いてみると最近の図書館はCDも貸し出すことが判った。最初のうちは海援隊とか
南こうせつとかを借りていたが、ふとビートルズを借りてみようかと思った。その時代の
人許(ばか)りで無く後の世代までファンがいるビートルズとはどんな音楽だろう、そん
な軽い気持ちだった。そしてハマった。

 あの当時一番よく耳にしたのは“I WANT TO HOLD YOUR HAND”だろうか。 この
辺になると流石にこの年齢では気恥ずかしい。 驚いたのは何とは無しに耳に残っていた
“ミッシェル”“オブ・ラ・デイ、オブ・ラ・ダ”がビートルズの曲だったことである。
そして“TICKET TO RIDE"になるとまさにこれだという感じである。意識下で聞き覚え
ていたのか何かしら懐かしく、いわばこの曲でハマったと言っても過言では無い。そうい
う意味では最初に著名な丈で借りたCDアルバムが「ヘルプ」だったため、この曲に直面
できたことが幸運だったかも知れない。いずれにしてもそれから私のビートルズ漁りが始
った。CDアルバムも「PREASE PREASE ME」から「PAST MASTERS Ⅱ」まで全部借
りまくったし、解散後のジョン・レノン、ポール・マッカートニーの作品まで手を延ばし
た。最近の「Live at the BBC」や「アンソロジー」等は図書館に出るのが待ちきれずに、
貧乏性の私にしては珍しく購入する始末である。今や一端のビートルズ通である。

 かくしてジレッタントにもほど遠い身ではあるが大胆にもビートルズの紹介を試みるこ
ととなる。
 先ずその魅力であるがすでに言い古されているように、アイドルからスタートしながら
其処に止まらずに絶えず自分達の音楽を追求して行った事である。 従って“DON'T LET
ME DOWN"“HELTER SKELTER"等のハードな曲から“グッドナイト”“SHI'S LEAVING
HOME”等の優しいものまで色んな曲がある。一般にクロウト衆はジョン・レノンの音楽
性をより高く評価している節があるが、私の好きな曲はどちらかといえばメロデイメーカ
ーと言われたポール・マッカートニーのものがやや多いようである。
 とにかく色んな楽器を使いこなし、多重録音を多用して色んな曲風を作り上げているの
である。
 これまで喰わず嫌いだった人の為に、全く私の独りよがりな推奨曲をアルバム毎に列記
する。


①「プリーズ・プリーズ・ミー」
    “PLEASE PLEASE ME”“LOVE ME DO”

②「ウイズ・ザ・ビートルズ」
    “ALL MY LOVING”“ROLL OVER BEETHOVEN”

③「ア・ハード・デイズ・ナイト」
    標題曲は特に気に入っている。間奏部が私の琴線に触れるのである。
    “CAN'T BUY ME LOVE”

④「ビートルズ・フォー・セール」
“I'LL FOLLOW THE SUN”“メドレーカンサスシテイ~ヘイヘイヘイ”

⑤「ヘルプ」
    “HELP” “TICKE TO RIDE YESTERDAY”
    “DIZZY MISS LISSY” はカバー曲であるがハードな乗りで好きな一曲である。

⑥「ラバー・ソウル」
    “ノルウエーの森”“ミッシェル”“イン・マイ・ライフ”“ガール”

⑦「リボルバー」
    “エリーナ・リグビー" “HERE THERE AND EVERYWHERE” がまた美しい
    曲でロック嫌いの人にも気に入って貰えると思う。
    “GOOD DAY SUNSHINE AND YOUR BIRD CAN SING”

⑧「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」
    このアルバムは架空のクラブのショウというコンセプトで纏められているので全
    曲聴く方が良い。中でも前述の“シーズ・リーヴィング・ホーム” “A DAY IN
    THE LIFE”が良いし、標題曲も軽快である。“グッド・モーニング・グッド・モ
    ーニング”は鶏の鳴き声等が入っていて楽しい。 又アルバムのジャケットには
    各国の著名人に混じって福助・置物が何故か入っている。

⑨「マジカル・ミステリー・ツアー」
    初めて全世界衛星生中継されたという“ALL NEED IS LOVE”は流石の盛り上
    がりである。
    “THE FOOL ON THE HILL” “STRAWBERRY FIELDS FOREVER”
    “PENNY LANE”もメロディ系であるが“I AM THE WALRUS”も変わった味がある。

⑩「ザ・ビートルズ」 (いわゆるホワイトアルバム)
    ジョージ・ハリスンの代表作である“ホワイル・マイギター・ジェントリー・ウ
    イープス”や“グッド・ナイト”は甘いし、“アイ・ウイル”もメロディアスで
    ある。
    “オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ”は思わず身体が踊り出すし、“PIGGIES”は
    ユーモラスである。前述の“ヘルター・スケルター”“EVERYBODY'S GOT
    SOMETHING TO HIDE EXCEPT ME & MY MONKEY”は喧しいが最も好きな部類の曲で
    ある。“REVOLUTION 1”“HAPPINESS IS A WARM GUN”“BLACKBIRD”も捨て難い。

⑪「イエロー・サブマリン」
    “ALL TOGETHER NOWは掛け合いの楽しい曲である。
    そして“オールユーニードイズラブ"ここにも収録されている。

⑫「アビー・ロード」
    いま現在一番気に入っているアルバムである。“COME TOGETHER”“YOU
    NEVER GIVE ME YOUR MONEY”も良いが圧巻は“GODEN SLUMBERS”から
    “CARRY THAT WEIGHT” を経て“THE END”へ雪崩れ込む終結部である。
    “ジ・エンド”ではジョン、ポール、ジョージのギターアドリブ競演が聴ける。
    又、“I WANT YOU”ではテープループが使われているし、ベートーヴェンの
    “月光”のコード進行を逆から辿ったといわれる“BECAUSE"は新鮮だ。

⑬「レット・イット・ビー」
    “ACROSS THE UNIVERS”は私には宇宙空間を漕ぎ進むようなイメージがある。
    そして“LET IT BE”で私は何故か行ったことも無いリバプールの港町を思い浮
    かべ間奏のギターに酔いしれるのである。“THE LONG AND WINDING ROAD”
    の叙情性、“GET BACK”の軽快さは数ある傑作の中でも出色のものだと思う。

⑭「パスト・マスターズVOL.Ⅰ」
    シングルレコードの集大成なので“FROM ME TO YOU“THANK YOU GIRL”
    “SHE LOVES YOU 等代表的な曲が多いが“THIS BOY”で三人のハモリを楽し
    んで頂き度い。

⑮「パスト・マスターズVOL.Ⅱ」
    矢張りシングル盤を集めたものなので“ゲット・バック”“ドント・レット・ミ
    ー・ダウン”“アクロス・ザ・ユニバース”“レット・イット・ビー”等も収録
    されているが“DAY TRIPPER”は真にロックそのものという気がする。そして
    “HEY JUDE”聴き始めた頃は後半のシャウトは邪魔に思ったが、今では不可欠
    の部分と思われる。“REVOLUTION”は歌詞に関係無く、日々の労働への慰めに
    聞こえるのはレイバーとの貧弱な語感の連想の所為だろうか。

⑯「その後」
    解散後、ポール・マッカートニーは、“心のラヴソング” “GOOD NIGHIT
    PRINCESS”“BALLROOM DANCING”等如何にも“らしい”曲を出しているが
    最近ではシンフォニーにも挑戦している。一方ジョン・レノンは
    “POWER TO THE PEOPLE”“MIND GAMES”等私好みの曲を沢山発表している上
    “HAPPY Xmas”がある。 私にはクリスマスソングの決定盤に思える。 そして
    アルバム“イマジン”。標題曲は当時喧伝された通り、解散後の彼の代表作だと思う。
    又このアルバムには“JELOUS GUY”“OH MY LOVE”の珠玉のラヴソングも収録さ
    れている。

 最近になってビートルズ再結成のファンの熱望?に応えて、ジョンの遺作のテープに旧
メンバーが集まって伴奏をつけたのが“FREE AS A BIRD”等である。この曲は巧く加工
されていて、それなりの雰囲気がある。そしてこれらの新曲?を目玉に、当時ボツになっ
たテープを収録したものが「アンソロジーⅠ~Ⅲ」である。好事家には願ってもない企画
だったかも知れないが、私には笑い声も交えて何回も収録して練り上げて行く様子が偲ば
れた以外は、所詮ボツになったテープだとしか思えなかった。事実、仕掛人が目論んだ程
には“Ⅰ~Ⅲ”の反響は少なかったと思う。
 世に大家、専門家は多い。コテコテのビートルズ狂、ロック通から見れば、この一文は
真に噴飯ものに違いない。だが生半可なゴルファーほど、スイングの指導をしたがるとの
譬えもある。ロックなんて等と尻込みしている人達に軽い気持ちで聴いて頂き度いのであ
る。私がそうであったように、小室等をはじめとする最近のリズム先行のポップスを聞か
されている耳には、懐かしく、亦新鮮な筈である。
 らしくない者が、らしくない事を述べた序でに言えば、私は最近ではビートルズから
“トル”を取ってビーズの“EASY COME EASY GO”“愛しい人よGOOD NIGHT……”等を愉し
んでいる。

43

 

明解国語辞典

 投稿者:資料管理請負人  投稿日:2014年 5月 6日(火)12時09分15秒
  斜光2号 1997
.

             明解国語辞典 




 思えば遠くに来たものだ。佐賀市南水ケ江町から東京、仙台を経て今、大宮市天沼町。
そして五十六歳。若い頃は四十歳を超えた人生など考えられなかった。下り坂の、従らに生
を刻む丈の日々に思えたのだ。あの三島由紀夫の「決起」も、折角鍛え上げた己の肉体が、
その努力にお構い無しに衰えて行くのが、彼の美学から我慢できなかった為だ、勝手にそう
思っている。それが馬齢を重ねてこの年齢となってしまった。いつも仕事に追いかけられ、
達成感の少ない日々であった、まだあれが残っている、次はこれをやらなくては……。そん
な潤いのない日常を頑張って来れたのは、あの佐賀で育った日々がパックボーンとなってい
たような気がする。
 小学校の頃、継ぎの入った服は当たり前であった、そして青バナを垂らしっ放しの子も居
たし、それを拭う所為で袖口をテカテカに光らせた子も多かった。子供用の自転車なぞ買っ
て貰えず大人用の三角乗りから覚えて行った。便所は汲み取りでポチャンという跳ね返りに
気を遣わねばならなかったし、新聞紙を手頃に切ったもので拭いていた頃も有ったように思
う。雨が降ればハダシで学校へ行ったことも有るように思うが、傘は番傘だったろうか。大
木公園の塀の上を走り回っていた記憶があるが落ちたことは無かっただろうか。次第に記憶
が定かで無くなる。高校一年の頃の事にしても、あの遠い北校舎まで飽きずに自転車で通っ
ていた筈だが、土砂降りの時はどうしたのだろう。レインコート(ダスターコート)に片手
傘だったのだろうが余り難儀をしたという記憶が残っていない。だいいちあの暑く湿気の多
い所でクーラーも無く団扇一つで過ごしていた事が信じられない思いがする。
 そして言葉。故郷を出てから後の方が最早倍に長くなってしまった。幸いにも私の場合は
親兄弟が首都圏に出て来ているので、集まると佐賀弁も出て来るが、普段は一端の標準語使
いである。次第にボキャブラリイが減って行くような気がする。佐賀在住の人もテレビの普
及と共に標準語化し、世代交代に伴って使われなくなって行くのではないだろうか。
 あの独特の温もりとユーモアのある純粋佐賀弁を集大成できないものだろうか。 そこで
題して「明解国語辞典」、最初から完璧なものだど望むべくも無いので、むしろ生い立ち記
の心算で書きなぐることとし、後は同人各位に補完訂正を頂き、最後に編集長に纏めて頂く
ことを期待する。


   あ 行

あがん=あのように。
あさん=貴様。お前。あさんどん=お前達。
あせがる=焦る。いらだつ。
あっぷいこっぷい=食傷している。腹一杯でこれ以上入らない状態。
あっぷか=可愛らしい。きれい。
あばかん=入り切れない。
あんびゃわるか=塩梅悪い。具合が悪い。体調が悪い。
いっちょん=ちっとも。少しも。全々
いひょうか=気難しい
いもんこ=里芋
いんにゅう=多く。沢山。
ううしかつ=乱雑な様子。取り散らかした様。
うすつっ=捨てる。
うっかんぐっ=こわれる。
うっくゆっ=壊れる。
うさっごと=ウソ。
うっちゃかす=落としてしまう。
ええくらい=酔っぱらい。
えすか=恐い
おい=俺。
おおどか=乱暴だ。
おおまん=いい加減。無茶苦茶。
おこもじ=高菜漬。
おむず=目が覚める。
おっとらる=取られる。盗まれる。
おてっさん=お婿さん。
おろうほんぽ=不得手。気が進まない状態。


   か 行

がしこ=これだけ(の量)
がた=○○家。○○の家。 (例)あさんがた=君ん家(ち)
かたる=参加する。(仲間に)入る。 (例)かっちゃえん=(仲間に)いれないよ。
が=値打。 がとなか=値打ちが無い。
から=○○で。○○を使って。 (例)自転車から=自転車で。
かんた、かんたぁ=○○ですか(問いかけ)。 (例)よかったかんたぁ=いりませんか。
きなか、きいな=か黄色い
きたんぶらつか=汚らしい。
きゃあつぐろ=かいつぶり
きゃあなゆっ=くたびれる。疲れ果てる。
きゃあまくるっ=勘違いする。
くさ、くそ=○○さ。○○だよ。
       (例)あのくさ=あのさぁ。あのね。 行ったくさ=いったんだよ。
くちなわ=まむし。
くっと、くっこ=来るの。来るか。但し一緒に行こうかという場合も使う。
ぐらいすっ=がっかりする。肩透かしにあう。
くらすっ=殴る。
くるわるっ=叱られる。
けえまつるっ=つまずく。
けまか=小さい。細かい。
こ、こう=○○か?ですか?(問い掛け) (例)なんこう=何か(用か)?何だい?
こぎる=値切る
こすか=狭い
ごたる、こたっ、ごと=○○のようだ。ように。
こちょぐる=くすぐる。


   さ 行

さらえる=平らげる
さるくさ=迷い歩く。散歩する。
じいだ=地面
しいやけどり、しいやけどい=飽きっぽい人、性格。
しかぶる=おもらしする。
しこ、しころ=だけ。それだの量。 (例)あっしころ=有るだけ。
じご=魚などのはらわた。
しったんたぎる=煮えたぎるを強調した言い方。
しっちゃがちゃ=滅茶滅茶、てんでんばらばら。
じのしたまめ=落花生。ピーナッツ。
じゃあけする=風邪をひく。
しゃあびゃあ=余計な口出し、介入。(例)あさんがしゃあびゃあせえじよかと=あんたが
           余計な口出ししなくても良い。余計なお世話だ。
しゃあびゃあやく=おせっかいに世話を焼く。
しゃいでんなか=造作も無い。何の苦もない。
しゃっぱ=しゃこ。
じゅっちゃんぼ=ぬかるみ。
すくたれ=みっともない格好。
すずめの卵=豆の入った駄菓子。
すずるっ=あふれる。
せからしか=うるさい。
せっか=牡蠣。
ぜんもん=乞食。
そいぎんた、そいぎー、そんないばぁ=それでは。転じてさようならにも使う。
ぞうぐい=遊戯としての取っ組み合い。しばしば本気になってしまう。
そうけ、しょうけ=ざる。
ぞうたん=冗談。
そうつく=あちこち、うろつく。
ぞうのきぃあく=愛想が尽きる。
そがん=そのように。
そそらそっぺう=わのそら。いい加減(で済ます状態)。
そでる=使い古される。


   た 行

たいかぶる=下痢になる。
ちい=つい。 (例)ちい忘るっ=つい忘れる。 ちいなった=はずみでそうなった。
ちっぱさっぱ=碌な物は無い状態。
ちゃあがつか=恥ずかしい。
ちゃあぎゃあ=大概に。程々に。
ちんにぐっ=遁走する。逃げる。
つうえか=物入りだ。費用が掛かる。
つぐる=一つになる。交尾する。
つんのうで=ついて(行く)。
と=物。 (例)おいがと=俺の物。 あがんと=あのような物。
どぎゃん=どのように。どんなに。
とぜんなか=手持ち無沙汰だ。淋しい。
ととしか=不器用だ。
どん=○○達。  (例)あさんどん=お前達。
とんこづく=調子に乗る。


   な 行

ない、なぁい=はい(返事)。
なおす=片付ける。仕舞う。
なたあ=○○ですね。  (例)ほんになたあ=本当にねぇ。
なんちょっきゃあ、なんちょっこう=何をほざくか。何だとぉ。
にき=○○の辺り。 (例)ここんにき=この辺り。
ぬってっつう=鈍重な奴。
ねまる=腐敗する。
のうなかす=紛失する。無くす。


   は 行

はらかく=腹を立てる。怒る。
びっきぃ=蛙。
ひょうぐっ=ふざける。
ふうけもん=馬鹿。阿呆。
へずる=減らす。
ぺちゃ=めんこ
ぼ=○○だよ。  (例)行ったぼ=行ったんだよ。
ほけ=湯気。
ほげる=穴があく。
ほとめく=饗応する。盛大にもてなす。
ほねやみ=草臥れること。疲労。
ほんなこつ=本当の事。本当に。ほんまに。


   ま 行

みそのこいか=面倒みられ過ぎ。おんぶにだっこの状態。
みたんなか=見栄えがしない。みっともない。
みんのす=耳の穴。
むぞうがる=可愛がる。


   や 行

やあらしか=愛らしい。可愛い。
やかまし云わるっ=叱られる。小言を云われる。
やぐらしか=面倒だ。
やも=やんま。
ゆうるし=夕方。
よおしとっ=黙っている。
よかばんた=いいですよ。
よそわしか=恐ろしい。身の毛もよだつ。転じて、とんでもない(思いも寄らない時に)。
よめくさん=お嫁さん。


   ら 行

らす=○○しておられる(敬語)。
ろくすっぽ=碌に(充分でない)。


   わ 行

わやく=いたずら。
わる=お金を崩して小さくする時にも使う。

 以上。中々思い出すものが少なく、締め切りも来てしまったので、関西佐高二九会-正し
い郷土弁を語りつぐ会の資料より可成り流用させて頂きました。同じ志と思われる事に免じ
て無断流用をお許し下さい。

26

 

徳重雅啓君を悼んで

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月 3日(土)13時31分5秒
  斜光 創刊号(1号)1996
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            徳重雅啓君を悼んで 




 赤松小学校高学年、他のクラスに博多弁をまくし立てて鼻っ柱だけは強そうな眼鏡が居
た。城南中学でも同級とはならなかった。
 佐高一年十五組、やっと正体を見た。本人は出鱈目と云って居たがピアノを弾いたり意
外に繊細な神経の持ち主であった。どちらかと云えば理詰めの思考しか出来ず、人の言葉
の裏を憶測したりすることの無かった、私にとっては、彼の発想、着眼は新鮮で教えられ
ることが多かった。目の前の光景を眺めて、今出会った人間が眼鏡を掛けていたかどうか
も見ていないような私に取っては、やれポニーテールがどうだとか服装がどうだとか良く
覚えている彼は異星人のようであった。取っ組み合いをすればすぐ「イタタタ」と悲鳴を
あげ、驚いて此処が力を抜くとその隙に逆襲してくるような狡さも有った。一足す一は2
しか有り得ないと思っていた私が三にもなれば考えようによっては百も有り得る世界を垣
間見るようになったのも彼の影響が大きい。彼から見れば定型的な考え方しか出来なかっ
た当時の私は面白くも何とも無い存在に違いなかったのだが妙にウマが合った。例の西堀
端を主としたグループが押し掛けて来たり、本人が抜け出したり、余りに往来が激しいの
で、本人の行末を心配した御両親が窓に鉄格子を付けてしまった事件は、実に象徴的であ
った。
 彼のキチンとした厳格な家庭とそれに縛られない本人の人と形(ナリ)を如実に物語って
いる。そう、自由人、一言で云えば、そうだった。その自由人が曲がりなりにも三十数年
サラリーマンを努めて来た。勤務地が離れて居て余り会う機会が無かったが、その気にな
ればいつでも会えると思って居た。三十五周年姫路の集まりには仕事にかこつけて来なか
ったりで、もう四、五年会って居なかった。三十周年佐賀からの帰りに押し掛けて若い奥
さんをチラと拝ませて貰ったが、照れたのかキチンとした紹介では無かった。東京の他の
仲間にも御披露目が済んで無いよと、事有る度に一度同伴するように云ってやっとその気
になり掛けた矢先だった。突然の訃報。膵炎、入院はして居ても急に容態が悪化する迄は、
家族も思いも掛けぬ旅立ちであったそうだ。心の準備をする隙も無く、さぞ無念であった
ことだろう。だが人間いずれ死ぬものであるから、長期療養でジワジワと死期を悟らされ
るよりは楽な往生であるかも知れない。残されたご家族には気の毒だが、そう思うことに
しよう。幸い賢婦人が遺言通りに家庭を守って居られる御様子。今はただ無責任に彼の面
影を追うこととしよう。
 高校時代グループで行った黒髪山、基山の草スキー、籾井塾、渡辺塾、お互いの誕生会、
郵便友の会、ETC、何かにつけて群れて居た。
 大学入試の時だったと思うがさきに上京していた彼が東京駅まで出迎えて呉れた。確か
中野から東京駅に来て、そのまま渋谷の松涛学舎に向かったのだが、彼丈が仲々改札を出
て来ない。黙って居れば中野から直接渋谷に来た事になった筈なのに、回った経路を説明
して清算して来たと云う、そんな几帳面さも有った。
 大学二年の時一緒に帰佐した時は、博多までの特急が大混乱、殆ど立ちづくめの状態だ
ったので検札が無く、特急券代が浮いた。これに味をしめて今度は意図的に佐賀まで急行
券無しで済まそうとした所、佐賀駅で捕まった。別々に尋問されて追徴金を取られたが、
さきに誘導尋問に引掛ったのは私らしい。そんな図太さも有った。お互い悪友だったのか、
こんな想い出許りである。
 今も耳元で聞こえるような気がする、彼の口癖、博多弁の「しゃあらしい」、大阪で覚
えたのだろう「何するねん」。
合掌。





1

 

鈍痛の年代 Ⅱ 

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月 3日(土)13時29分17秒
編集済
  斜光 創刊号(1号)1996
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              鈍痛の年代 Ⅱ 




 以前「鈍痛の年代」を書いた時は、概ね評判は良くなかった。皆まだまだ体力の衰えを
認めたくなかった為でもあると思っている。
 しかし早いものでもう六年経った。中年が三人集まればゴルフの話か、子供の話か、病
気の話になるとの警句もある。多少は関心を持って頂けるのかと思い、どっぷりとその境
地に浸ることとしよう。


 その一 大腸ポリープのこと

 平成三年十月の事であった。尾籠な話で恐縮だが便が黒いように思ったので何気なく感
想を漏らした。その一年前定期成人病検査の際に肥満も病気のうちであると威かされてダ
イエットに取組んでいた。その甲斐あって一時は七十四キロ以上もあった体重が六十八キ
ロ近く減っていた。しかし妻はこの二つを悪く結びつけて考えたらしく頻りに精密検査を
勧める。私は便が黒いのは前日、ぶどうを喰べた所為だろうと取り合わない。
 押し問答の挙句、大病院は混んで居て半日掛かりになるのが苦痛なので順番取りを妻が
代行することで折り合いをつけた。所が、病院の待ち時間程予測の立ち難いものは無く時
間を見計らって駆けつけた時には前代未聞の本人不在のまま診察は終わっていた。
 御託宣は食餌療法だけで五キロ以上も痩せる訳は無く大腸よりむしろ胃の方から調べま
しょうと言うことであった。
 これから検査地獄が始まった。
 胸部レントゲン、胃のバリウム検査異常なし。血液検査、糖尿、コレステロール問題な
し。白血球が多い。
 次に大腸検査。先ずバリウムを注入するブロー検査、この段階でポリープが発見された
が世間には定期的にポリープを取っている人も多く全く心配していない。いよいよ内視鏡
による摘出、科学の発展は素晴らしい。お尻から突込まれた管の先端のカメラで写された
ものがテレビ画面で見られる丈でなく、針金の輪をリモコンでポリープに引掛けて電気で
焼き切るという。これで一件落着の筈だった。
 所が、途中で医者の数が増えたりして相当時間が掛かった挙句に取らなかったと言う。
 普通良性のポリープならば先端が丸いのが、凹んで平になっていて限りなく黒に近いの
で大事を取って日を改め準備を整えてやりましょうとの説明だった。おまけにもう一度プ
ローで位置を良く確認してから別の日に切除したいという。その都度前日は絶食状態で下
剤をかける。これ自体が結構辛いものであった。来なくて良いと云うのにその都度張り切
って医者に連行する妻が悪魔に見えたことだった。
 もっとも妻は妻で人一倍心配性な所へ、初期癌と宣告されたようなものだったから、可
成落ち込んで居たらしい。自分一人では自信が無かったのか切除の際は子供達を呼び寄せ
た程であった。
 私はと云えば気障に聞こえるかも知れないが、家族はまあ保険等で何とかなるだろう。
自分が引受けている会社はどうか、残念ながら社内に適材が居ないなあ。親会社から社長
を派遣して貰うしか無いかなあ。その場合ぬるま湯体質に見えて現社員は徐々に排除され
るような事になり兼ねないなあ。矢張り死んで居れないかなあ等と考えていた。
 そして十二月二十日、十五パーセント位の確率で削り過ぎて出血の場合は急遽開腹手術
に切換える場合もある等と威かされ乍らも、無事摘出されガン組織も発見されなっかたそ
うである。
 担当医師によればもともとポリープには良性も悪性も無く放置すれば癌化しやすく早目
に切除するのが一番良いとの事であった。その指示により半年後に又一つ取り、もう一つ
小さくて取れないのがあるので更に一年後に検査するように診断された。
 過剰反応の妻は何処で聞きつけたのか予防の為丸山ワクチンを打つことを思いつき、カ
ミさん孝行のつもりで従っているうちに一年が過ぎた。又イヤな絶食、下剤セットの結果
ポリープは何も無いとの事であった。更に三年後の本年五月の検査でも切除の跡が二ケ所
ある丈で何ともないという。
 今にして思えば最初の切除の時に担当医が確か典型的だとか云ってやゝ興奮気味だった
のでギリギリの早期発見だったのかも知れない。又、その前の念を入れたブロー検査の際
に担当医が頻りにすまないと云い、別の医者が二名ほど集まって来たのを考えると手術上
は必要無いけれども前癌症状がプロ-でどう見えるか標本的な意味合いでやらされたよう
な気がする。
 いずれにしても丸山ワクチンの効果か、出来かけていたポリープは消え、あと三年位は
安心して居られそうだ。通常自覚症状が無く、手遅れになりがちなものが事無きを得たよ
うである。この際、自分は強運などと嘯いていないで素直に妻の過剰反応と担当医師の手
腕に感謝して置こう。
 その代わり、辛い憂き世で今後共馬車馬の如く働かされるのか。嗚呼。


 その二 奇病倶楽部

 私はどういう訳か変わった病歴を誇っている。八、九年前には食事の際に自分の舌まで
噛んでしまって舌の先端が球状にに腫れ上がった。そのうちに自然治癒するだろうと放っ
て置いたが、舌の筋肉が怒ってしまったのか、一向に治らない、舌先に丸いものを付けて
目障りだしみっともない事この上も無い。医者の診断は放置すればガン化する懸念無しと
しないとの事で敏感な処だから入院して切除しましょうという事になった。所が指定され
た日に入院の支度を整えて勇んで出掛けると手違いで病室が空いて居ないと云う。その挙
句当初日帰りを要望した私に手術を馬鹿にしてはいけないと諭した同じ担当医が、まあ軽
い手術だから術後少し休養を取ればその日に帰って大丈夫でせうと決行となった。一階の
外来で麻酔注射を打った為か、三階の手術室まで手押し車運ばれる事となった。悪い所は
舌だけなのに外来で混んでいる廊下をしずしずとエレベーターまで進んでいくあの時、ど
んな大病なのだろう、お可愛想とでも云った衆人の視線が恥ずかしかったものだ。
 この手術は舌先を焼き切る丈なので比較的簡単に済んだが、麻酔が切れた後一週間位舌
先が何とも云えず痛かったことを覚えている。それにしても私は入院に恵まれていない。

   網膜裂孔
 平成六年六月会社関係のお通夜に車を運転して出掛けた。その帰途何だか対向車のライ
トが目に飛び込んで来るような感じでハッとさせられる、眼球を動かすとそうなるようだ。
帰宅してから目玉をあれこれ動かして調べて見ると、今迄時々極く小さな斑点が目の中に
現れて居たのが短髪の毛ほどの黒線が頻繁に目前を横切る。いわゆる飛蚊症というものら
しい。幸い義兄が眼科医なので電話で聞いてみると飛蚊症そのものは老化の一種で治せな
いが心配なら一度診てあげませうという事になった。気になるので仕事の合間に診察を受
けたら右目に網膜裂孔が有ることが分かった。網膜に小さな孔が出来て居り、何かの折り
に水晶体の水がこの孔より網膜の裏側に入って網膜を洗い流すと網膜剥離となり失明する
という。義兄の診療所には設備が無いので井上眼科を紹介して貰って手術した。レーザー
で孔の周囲を点付けして丁度裁縫の穴かがりのように繕って剥離を防止するのである。こ
れも早期発見と云え、もし身内に眼科医が居なければ忙しさにかまけて診断を一日延ばし
に遅らせて手遅れとなったかも知れず、折角行っても飛蚊症は誰でも遅かれ早かれ出るも
のだと軽く一蹴され、精密検査はしなかったかも知れない。矢張り私は悪運強い人間かも
知れない。

   耳下腺炎
 それから一ヶ月も経たない某日、鼻をかんだ時、プクリと空気が入ったような感じがし
た。翌日になると顎骨の下が腫れている。リンパ腺が腫れたにしては位置が高い気がする、
しかも少しずつ大きくなって行く。おたふく風邪かな、幼少時にやった記憶は無く、母親
はとっくに亡くなって居て確認する術が無い。近所の医者に行ったらおたふくかどうかは
血液検査をすれば分かるが一週間位掛かると云う。人に感染してはいけないので大事な来
賓の対応も社員に任せて大人しく血液検査の結果を待った。結局は単なる耳下腺炎で薬を
呑んでいる内に腫れも引き、事無きを得た。夜更かし等無理が続いて居たので掛かったの
であろうが、つくづくもう若くは無いのだなと悟った次第である。

   交通事故
 平成六年十二月某日、家で仕事の手配をしていた為遅目の出勤となり、自転車で大宮駅
へ向かっていた時の事である。さほど急いで居た訳でも無いがいつもの道で営業用の乗用
車とぶつかった。私は自転車なので一方通行を逆に走っていたが、より小さい道と交差す
る十字路に差掛かった時、こちらが優先道路で相手の方は一時停止になっているのを知っ
て居たのでスピードを緩めずに侵入した。相手の車は左側から横切るつもりで入って来た
のだが、一時停止はしたものの一方通行なのでミラーで反対側の確認しかしないで入って
来たらしい。あっぶつかると思った時には接触して横転していたが、相手もすぐ気付いて
プレーキを踏んだらしく、止まる寸前にコツンと当たった程度であった。それでも自転車
の前輪のリムが曲がって居たから衝撃は少なくなかったのだろうが両足の膝と臑を打撲し
た程度であった。ただ、あれはどういう心理なのか、反射的に立ち上がり、それこそ後で
考えると転んでから立ち上がったのか、ぶつかっても転ぶ程では無かったのか、定かで無
くなる程の素早さで立ち上がり、そして思わず周囲を見回して事故の当事者の気恥ずかし
さを味わっている、自分が悪い訳でも無いのに反射的に人目を気にしている、あの反射神
経の流れは全く不可解である。落ち着きを取戻してからは相手に免許証の提示を求め、余
り裏道を走らない方がいいよ等と囁いて居る。この打撲症も、その瞬間を過ぎたら意外に
痛さが続いたが、六回程通院して、相手より保険でさゝやかな慰謝料をせしめて完治した。

   猿もの?
 平成七年九月下痢嘔吐を伴う風邪が流行っていた。或る金曜日、翌日が休みなので帰宅
は十二時を回っていた。遅い晩飯を摂った後、一服して風呂に入っていた所、急にお腹が
張り出して来た。お腹に空気が充満する感じで下を向くのも苦しい、お産もかくやとばか
りの苦しみである。洗髪も早々にトイレに駆け込んだが、お腹が張る許りで下に出るもの
は無い。熱は無かったが頭がやや重いので市販の風邪薬を呑んで就寝する。翌日も微熱が
有ってお腹が張ったりシクシク痛かったりするので救急箱の風邪薬と胃薬を呑んで一日寝
ていた。日曜になっても治らずお粥など流動食を摂っても、食後すぐに差込むようにお腹
が痛く、やゝあって下痢となる。堪らず近くの大学病院に押掛けて、今後は電話してから
来て下さいと釘を刺され乍らも診察を受けて抗生物質の風邪薬と下痢止めを服用する。そ
のお蔭か夜になってお粥を食べても差程お腹が痛くなくなった。余談だが事前に電話した
場合、よほどの重症で無い限り断わられるのでとにかく行くに限るもののようである。
 月曜日、下痢もやゝ軟らかい程度まで治まったので出社すると、一人同様な下痢風邪で
休んで居た。今年は変な風邪が流行っているのだなあ。
 昼前になって滝野川保健所より電話が入った。我が社でも取って居る給食弁当屋から同
様症状が続出していると云う、そう云えば金曜日に喰べた弁当の春雨とキクラゲ、野菜の
炒めものが何となくべちゃっとして気に染まなかったなあ。
 結局サルモネラ菌であると判定されたが、薬を呑んで菌を体外に排出して仕舞えば特別
に治療すること無く治るという意外に簡単な結末で猿もの事件は幕となった。


 その三 エピローグ

 それにしても何と病気する頻度が高くなったことよ。しかも私の場合はよほど貧乏症に
出来ているのだろう、入院はおろか碌に会社を休むことも無かった。丈夫に育てて呉れた
親に感謝すべきだろうが一度はゆっくり入院して看護婦さんをからかったりしたいものだ。
神様はまだまだ働き続けよとの思召しらしい。
 思えば今年になって同級の中には長く入院したり、亡くなった人も居る。
いわく、平成の厄年は十年遅れでやってくる。戦後どんどん食糧事情が良くなって平均
寿命も延びて居るので丁度こんな感じでは無かろうか。未だの方は充分気を付けて睡眠だ
けでも良く取りませう、御同輩。

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鈍痛の年代 Ⅰ

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月 3日(土)13時21分6秒
  青春のあの日  1991
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            鈍痛の年代 Ⅰ 




 いづれの頃にやありにけん、身体のあちろこちに鈍い痛みを覚える年代となってしまった。
それと反比例するが如くに心の痛みは鋭さを欠いて鈍化する。ただ涙腺が弛緩するのみであ
る。つまるところ、心身共に鈍痛を覚えながら中年真っ盛りになったようである。
 あれは佐高卒後15年、現職へデューダする際に先輩達が催してくれた送別のゴルフコン
ペの時であった。前夜の寝不足の所為か、6番ホール、セカンドショット、踏ん張った右足
のふくらはぎに激痛が走った。筋肉がコチコチに硬くなり痛くて立って居られない。足が吊
ったのである。思えば、これが体力の降り坂の始まりであった
 この頃は亦、それまでの人生を振り返って別の生き方があったかなあという想いが胸をよ
ぎり、心に鋭い痛みを感じ始めた頃でもあった。学生生活、進学、交友、就職、恋愛、結婚、
会社勤務等それまでの様々な岐路、局面において別の選択もあったのではなかろうか。どち
らかと言えば引っ込み思案で、社会規範の枠を破れないでいたその当時に、現在の心臓にて
戻れたらという無い物ねだりの心境はあっても、それは後悔というよりも寧ろ今後の人生の
枠が決められていく事への恐怖感である。丁度、列車が各駅のポイントの切換により終着駅
へ驀進するが如くに、我が人生も見えざる手、もしくは己の怠惰により到着地点が定められ
て行く。この儘で良いのだろうか。朝起きて食事して仕事してクソして寝る、この繰り返し
で一生を終える。悠久の歴史の流れの中で沈んでしまうのならば、四十歳、五十歳までも生
き長らえても余り意味のないことではないか。
 縁あって現在の小さな封筒会社に入ってからも恐怖感は時々襲って来る。それと相俟って
身体の方は、腰が痛くなってくる、歯も周期的に治療して歯槽膿漏の気配、肩首筋が張る、
長年培って来た痔も痛い、若い頃捻った足首もきしんでくる、真に鈍痛のオンパレードとな
って来た。腰などは何時ギックリ腰になっても可笑しくないと前兆に戦いている。
 そんな中で石原裕次郎が死んだ。善し悪しは別として我等の時代の象徴であった男である。
他人には出来ないことを一気に経験して駆け抜けていった行った感がある。我々はたとえ水
増しの人生であっても、生きている間に出来ることを精一杯やらねばならない。
 平成の世となって極めつけの腱鞘炎まで抱え込むこととなった。事務所を改築して男手が
出払った後に机什器の移動に精を出し、翌日には長男が大学入試の為、初めて下宿する部屋
への引っ越し掃除に専念した。この連続がいけなかった。左右のヒジの鈍痛が一年半経って
も取れないでいる。この一件ほど、もう若くはないと痛感したことはなかった。
 幸いなことに心の痛みの方は鈍痛となり、寧ろたとえ泡沫の一生であっても今後何が出来
るかやるだけやってみようとの気持ちが強い。
 若い頃は思いも及ばなかった五十歳に手が届く今、肉体の鈍痛に耐え、心を鈍くして頑張
ろうではないか、御同輩!!
1991
佐賀高等学校十一期卒業三十周年記念誌「青春のあの日」投稿復刻文

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松濤学舎 1995

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月 2日(金)21時34分37秒
編集済
  斜光 パイロット版 1995
.

               松濤学舎 




 佐賀県人会学生寮松濤学舎は渋谷駅から歩いて八分位のところに有った。
幸か不幸か私は入寮はしていない。両親が転職で西永福に住むこととなったので大学四
年間は親元より通う羽目となった為である。だが生憎と四年を通じて渋谷駅が通学の乗換
駅であったのでつい足が向き、今でも舎友会の集まりに通いの寮生として出席させて貰う
程である。いわば良くも悪くも学生生活の根城のようなものだった。

 渋谷駅前の大盛堂書店の横を入って繁華街の中を歩くと右側に渋谷食堂を見て三平食堂
の前を通る。この通りには四階がビリヤードで五階が麻雀荘の汚いビルがあり、年代もの
のエレベーターも懐かしい。頃合いを見て左へ曲がると大通りへ出てそれは間もなく左へ
大きくカーブする。この道に面した小学校の校庭がコンクリートで固めてあるのを初めて
見たときは驚いた。よく頭を打ったり擦りむいたりしないものだなあ。
 小学校の斜め向かいはカレーのムールギー。この道を三十m位行けば確か道が少し狭く
なる。ここで左へ曲がれば急な上り坂となり、登るほどに渋谷の賑わいが嘘のような閑静
な高級住宅地となる。その突き当たりの頂上部に異分子松濤学舎があった。寮の前を左へ
折れて行けば山本富士子や東竜太郎の邸宅が有った。
 放歌高吟その他近所へ迷惑を掛けることも多かった。まだ学生に対し寛大な時代ではあ
ったが度重なれば苦情も多く、その対応と盗食対策とが寮監の悩みの種であったようであ
る。

 初めての大学受験の折は親はまだ佐賀に居たので松濤学舎にお世話になった。古き良き
時代、進学指導係の森さんの要請一つで渡辺先輩が東京駅まで迎えにきて呉れた。いわく、
急行を降りたホームを動くなという―子どもじゃあるまいし、改札口まで行ったり電車
を乗り換えて渋谷までくらい行けると思ったが、東京駅へ着いて納得、佐賀駅と違い改札
口がいくつも有る。おとなしく先輩に引かれて渋谷駅はハチ公口に降りたって又驚いた。
おびただしい人の群れ、同行の古賀俊之君(通称ラッキョ)が云った。「うわあ何ですか
こいわ…日峯さんのお祭りのごたっ。何か(催しでも)有っとですか」

 それから一年間は東京での浪人生活、これは比較的真面目に過ごした。所が古賀ラッキ
ョ君も同じように一浪の末松濤学舎に入った。他にも佐高同期生が多士済々である。私の
通いの寮生活が始まった。

 金丸俊久君はとにかく頭が良く手先も器用だった。色々と麻雀必勝事前対策を考案し器
用にこなしバレルことが無かった。才能を生かして歯科医を開業、これからという時に二
十年振りの再会も出来ないうちに急逝した。何か天才は人の倍の早さで階段を駆け上がっ
ていったような気がする。本当に気のいい奴だった。合掌。

 内田忠夫君、東田君にはダンパ荒らしを教わった。モテたのモテないのと云いながら懲
りもせずダンスパーティに通ったものである。
 他校出身も含めて麻雀のメンバーには事欠かず、御厨康司君も練達の域であった。私は
と云えば無器用な方なのでラッキョ、金丸にはカモにされた口惜しさが残るが、今の全自
動なら負けないと自負している。

 こんな根城があったから渋谷の街も我が物顔で闊歩した。恋文横町には汚い暖簾の食堂
が立ち並び台湾料理の麗郷があった。ガツ、豚の耳、その他。少しおごって百軒店の銭形
寿司で夕食をしたり、テアトルSS、井の頭線横の黒い瞳で冒険した。
 先輩諸氏にも色々とお世話になり教わった。通いの寮生である為、学生寮の序列の規律
を味わわずに減らず口をたたいていたような気がする。
 青春時代の交友が佐賀に偏りすぎたキライはあるがあの頃の重大なイメージとして松濤
学舎は私の心に焼きついている。
 残念ながらその松濤学舎も先年二十数年振りに足を延ばして見に行ったら跡形も無く能
楽堂のような物が出来て居て道路も整備されていた。


*作品評 →   http://2style.in/alpha/26-3-G.html

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